『北齋漫畫』横山くんが演じる「葛飾北斎」とは
『北齋漫畫』に当選された方、おめでとうございます!
行きたかった~!けど、横山さんを愛してやまない横山担の方々が当選しているので、元祖丸山担の私は一般のテレコ頑張ります!
みなさんが、より舞台を楽しめるように、横山さんが演じる「葛飾北斎」を、私なりにまとめてみたのでお暇な時にでも。
(展覧会や映画、画集の解説から得た知識なので、浅々かつ誤認があったらすみません!)
・葛飾北斎という男。
葛飾北斎は、江戸時代(文化文政時代)に数多くの名画を生み出した、天才浮世絵師で、父は当時活躍していた鏡師・中島伊勢。
「立派な彫師になるから、出て行かせてくれ!」と意気込んだものの努力が見受けられない息子・北斎の駄目っぷりにブチ切れ、北斎を勘当するという、厳格な父であった。
しかしその親譲り(身勝手な母親に捨てられた捨て子で伊勢とは本当の親子ではないという説もある)の破天荒ぶりは、娘をはじめ、周りの人を良い意味でも悪い意味でも振り回していたという。
面倒臭がりで、礼儀正しいものや一般常識、通念上のタブーが嫌いだった北斎は、あえてそれを破ることが多かった。
例えば、3食すべて他人のお金で出前を頼み、その器をため込んだり。
お金持ちになった時期ですら、風俗などでの遊ぶ金欲しさに友人らからお金を借りていたり(基本返済しない)。
しかし、当然借りたお金は返すことになるし、「そんな借金野郎には貸してやらん!」となってしまう人も多くいたため、北斎は自分の名前(画号)すら売っていたとも言われている。
実は彼は様々な理由(破門、気分(引っ越し癖)、借金)により、18歳ほどから死ぬまでになんと30回以上改名をしているのだ。
そんな経歴の中でとりわけ世間から注目されていた主な時代は、5つ。
①「春朗」期
彫師としてデビューしていた頃。
勝川春章の元に弟子入りし、仕事は主に風俗画や小さな本の挿絵や役者絵(写楽などで有名な絵の種類)。
師匠の勝川先生が亡くなってすぐに翻すように他の先生のところに弟子入りし、破門され、名乗ることができなくなる。
②「宗理」期
あの俵屋宗達(江戸時代初期・風神雷神図屏風の人)が大元で派生した俵屋に入った北斎は、俵屋宗理先生に弟子入りし、琳派を本格的に学ぶ。
これにより、人物画が主だった彼の作品観中に壮大なデザイン構築力が培われた時代となる。
③「北斎」期
葛飾北斎として有名になった頃、彼の仕事仲間といえば、『東海道中膝栗毛(弥次喜多)』の十返舎一九や、『里見八犬伝』の曲亭馬琴(馬琴の家には長く居候もしていららしい)らという超売れっ子作家たち。
彼らの書く小説の挿絵も任されていた北斎は、彫師の域を超えた様々な仕事を始めるようになる。
米粒にリアルなスズメを描いたり、地面にとてつもなくでかい絵を描くなどの曲芸ですら、町中の人気をかっさらう。
彼にとって、何をしても褒められ、お金がたくさんあった時代。
北斎はついに、自分の実力を世間に認められ、皆が北斎のその繊細な絵の描き方に魅了され、まさに「北斎天下」の時代だ。
ちなみに今回の舞台のタイトルにもなっている、彼が出版した『北斎漫画』は、動物や植物、人の表情や動きなど、カテゴリーごとに分けられ、シリーズ化されていたイラスト集である。
一つ一つのページにびっしり、さまざまなモノが緻密かつ親しみやすいデフォルメで描かれていて、まるで図鑑のような情報量でした。(展覧会で見た感想)
北斎の観察眼と再現力の高さは、ヨーロッパ絵画の世界にも大きく影響を与えているという。
しかし、人気を得る一方で、商業的な仕事ばかりをこなす感覚がこべりつき、芸術家としての感覚を遠くに感じるようになっていたことに恐怖を感じたのか、彼は突然その「北斎」という名も人気も捨て、
画材道具だけを持って旅に出たのだ。
④「為一」期
北斎の代名詞、『冨嶽三十六景』は、実はこの「為一」と名乗っていた時期に誕生した。
旅を通して、様々な土地から眺めた富士山という不動の存在に魅了された北斎は、富士山と、人々の生活、そして雄大な風景を次々に描いていった。
その中でも代表的な『神奈川沖浪裏』は、その複雑かつ大胆な波と背景のグラデーションなどを表現するために、何度も何度も重ねて摺る必要があり、さらにこだわりの強い北斎の注文も多かったため、出版社泣かせと呼ばれている。
ちなみに泣かされていた本屋というのが「蔦屋」という書房で、今の「TSUTAYA」であるという噂も。
TSUTAYAってそんな昔からあるのか…時代は続いていくものなのね。
⑤「画狂老人卍」期
葛飾北斎の時代から、北斎は自らを「画狂人」と名乗る、中二病のような男だった。
そんな中二病彫師はそのままこじらせ、ついには「画狂老人卍」へとパワーアップ。その頃になると、もう80歳超えのおじいちゃんなわけで。
「葛飾北斎ってあれっしょ~?有名な絵の人っしょ~?マジ卍(笑)」みたいな若者からは、まさかこの汚いおじいちゃんがその葛飾北斎だとは気づかれず、
だいぶ寂れた画狂人生を送っていた。
しかし、心の中は昔の破天荒彫師のままであるため、北斎は、死ぬ寸前まで、学びに学びを重ね、自分を「終わった人」ではなく「始まってすらいない人」であると信じていた。
そして狂いに狂った北斎は、五年ほどの長く壮大なシリーズの計画を立てながら、この世を去った。
※北斎が活躍した文化文政時代とは、江戸の後期、天保などの時代を指し、幕府の力があまりにも無慈悲に強まり、そして衰退を始める時代でもあった。
そんな時代に誕生したのが、 化政文化 である。
化政文化は、江戸の町人らの生活風景などを描いた「町人文化」のひとつであり、北斎もその文化を作った最も有名な表現者の一人である。
この頃は主に、
滑稽本(江戸時代のコメディ小説のようなもの。その内容は現代の落語にも強く影響を与えている)
春画(江戸時代のエロ本)
浮世絵(人々の生活や風景を描いたもの。江戸時代当時の”現代アート”)
などが流行っていた。出版(この頃はまだ活版(機械印刷)ではなく、手摺りの時代)が栄えた時代でもある。
あまり書きすぎるとごっちゃごちゃしてしまうので、簡単にまとめてしまいましたが、少しでも「葛飾北斎」について触れていただけたら幸いです。
横山さんの悠久の美貌で、若い頃の北斎から晩年の北斎まで、演じぬけるのは、あまりにも圧巻…。
破天荒で、繊細で、自分の才能を追求し続ける姿は、北斎と横山さん、どちらの為人にも当てはまる素敵なところですね。
横山さん、体に気を付けて、楽しい公演期間をお過ごしください!!!!!!!私も行きたい!!!!!!(煩悩のかたまり)